国産のスーパー素材、<ジェネスタ>

国産のスーパー素材、<ジェネスタ>

ストーリー01 研究開発

柏村 次史 研究開発本部長
工学研究科 石油化学専攻

高分子化学に苦手意識の研究員が製品開発を担当

 日本が生んだスーパー素材の一つと高く評価される〈ジェネスタ〉。世界から注目されるエンジニアリング・プラスチックである。1999年に西条事業所で生産が始まった当初、年間生産量はわずか100トン足らずであったが、現在では国内の2拠点で年間1万3000トンもの生産能力を誇っている。今後、海外での事業展開も見込まれ、クラレにおける新たな事業の柱へと大きく成長しつつある製品だ。
 今や一大事業へと飛躍する〈ジェネスタ〉。その基礎研究から製造技術の開発、商品企画、市場の開拓までを手がけたのが、ジェネスタ事業部長を務めた柏村次史(現、執行役員)である。
 彼が開発に着手したのは1992年のこと。大学時代は石油化学を専攻し、合成化学の分野に関してはだれにも負けない自信があった。ところが、〈ジェネスタ〉のような高分子化学分野については、「実は講義で単位を落とした」と打ち明けるほど苦手意識があったという。「入社後、倉敷中央研究所でポリマーの研究に取り組むも最初の2年間はテーマが見つからず、ウジウジした日々を過ごしていました。今では考えられないけれども、研究所の周辺でクモの糸を採取してはどんな成分なのか調べるといった毎日。クモの糸ってポリマーなんだ、と納得してみたり…」。
 こんなことではダメだと柏村は一念発起。ポリマーを一から勉強し直した。研究テーマを模索する中で、上司から言われたのは「まずは自分で考えて、好きにやってみろ」のひと言。プレッシャーはあったものの、「技術の根本部分について思いきり探求できたのが結果的によかった」という。

 ポリアミドに本格的に関わるようになったのは入社7年目のことだ。当時、参考文献はほとんど見当たらず、まさにゼロからの出発であった。何も分からない中で、柏村が真っ先に取り組んだのはナイロン関係の論文を片っ端から読み込むことであった。「数か月で300件は読破した」という。
 次に取り組んだのが、既存のポリアミドを見様見真似で作ってみること。頭では理解しても、実際に作ってみないと分からないことが多々ある。実際、「このときの勉強、実験が後々大いに役立った」と柏村は当時を振り返る。
 研究を始めて、柏村はポリウレタンなど30種類ほどの候補物質を検討した。特性から特に製品として有望だったのが後に〈ジェネスタ〉となるポリアミド樹脂であった。研究開発を始めて3年目の1994年のことである。
 試行錯誤の末、候補物質にたどり着いたものの、出来上がったサンプルの量はわずか100グラム。これでは少なすぎて、顧客の評価用に持参することもできない。その際、救いの手を差しのべたのが研究室の先輩や同僚であった。3週間にわたって昼夜2交替の体制で、サンプル用の物質の合成に加勢してくれたのである。その結果、出来上がったサンプルは3キログラムに達した。これが〈ジェネスタ〉の原点である。「研究開発者が一人でできることには限界がある。チームで協力し合うことの大切さを痛感した」と柏村は振り返る。

「厳しいお客様ほど、貴重なお客様」と各社を回る

 完成したサンプルを持参して、柏村はユーザーである大手の電機メーカーや自動車メーカーなどに意気揚々と乗り込んだ。「画期的なスーパー樹脂なのだから、すぐに採用されるだろう」という期待に胸を膨らませていたのである。
 ところが、ユーザーの評価はことのほか厳しかった。100点中20点はまだ良い方、中には5点という評価もあった。完膚なきまでのダメ出し。これには自信家の柏村もさすがに落ち込んだ。また、自動車業界からはサンプルそのものに対する低評価に加えて、「クラレが自動車の世界に何の用?」と冷たくあしらわれたことも再三あった。

 客先を訪問するたびに、厳しい指摘を受けてはしょげて帰る繰り返し。しかし、気落ちしても立ち直りが早いのが彼の持ち味だ。再び意を決して訪問する。その都度、製品の問題点を指摘されるのだが、実はこれがユーザーを知るとともに、製品の改良を進める上で貴重な経験となった。
 「厳しいお客様ほど、貴重なお客様」。これは昔も今も変わらない。最も厳しい評価を下したユーザーのある役員は、柏村を呼んではこんこんと説教をした。あたかも学校の先生と生徒である。「訪問するたびに怒られました、しかし、こんなにありがたいことはない」と柏村は振り返る。特にあるひと言は柏村の心を射た。

「キミはこの製品を生み出したというけれど、我が子と同じに思って育てているか? 親なら子どものために犠牲になることもいとわないはずだが、製品のために一生をかけろと言われたら、キミはできるか? そこまでの覚悟を持って製品の開発に身命を賭しているか? それだけの迫力を込めて営業に来なければ、うちはキミの製品を買わないよ」
 厳しい顧客は貴重な顧客であるとともに、それだけ期待している顧客でもある。この役員が所属した企業は現在、〈ジェネスタ〉の大口需要家の一社となっている。
 ユーザーから厳しい指摘を受け、その打開策に悩んだとき、柏村は決まって化学式に立ち返った。ノートにびっしりと書き込まれた化学式をにらんでは、「これで本当に完成したといえるのか?」と自問自答を繰り返した。「今にして思えば、私が手がけた試作品の出来が悪すぎた」と彼は苦笑いする。化学式を書いては試作。またまた化学式、そして試作…。まさにトライアンドエラーで悪戦苦闘する中で、現在の〈ジェネスタ〉に向けて、柏村は次第に成功の感触をつかむようになっていったのである。

「これと決めたら、とことんのめり込む」で市場を開拓

 〈ジェネスタ〉の開発の目処がついたのは1997年のこと。事業化にゴーサインが出ると、柏村は間髪を入れず、市場の開発に奔走した。常務からは「有望な市場を徹底的に回れ。そして市場を耕せ」と檄が飛んだ。そして1999年からは西条工場で生産が始まった。
 折しも、電気・電子業界はプリント基板の表面実装(SMT)の普及期を迎えていた。これには薄型のコネクタ類が欠かせない。その材料として「〈ジェネスタ〉は最適」とユーザーから評価されたのである。
 また、環境問題を背景に、電子部品のはんだ付けでは鉛を含有しない「鉛フリーはんだ」の使用が急速に広まっていた。これに伴い、はんだ材料の融点が高くなったため、樹脂部品の一層の耐熱性が問われたのだが、〈ジェネスタ〉は唯一「鉛フリーはんだ」に対応できる樹脂材料であった。
 事業化から7年。柏村は新プラントの建設を会社の経営陣に直訴した。工場新設に必要な予算は約100億円。この際、柏村が作成した提案資料はB4サイズで数十枚のボリュームに及んだ。
 会長および社長を前にしてのプレゼンで、会長からかけられた言葉が今でも忘れられないという。
「説明の資料をいくら積んでも、そんなものは究極のところ意味をなさない。最後の最後は開発を手がけた者の目の輝きを見て決めるものだ。つまり、キミの目がどれだけギラギラしているか、ということだ」
 役員室のフロアから引き上げる際、柏村は廊下のじゅうたんに足を取られて「思わずコケそうになった」と今でも苦笑いする。プレゼンは成功にこそ終わったが、柏村はそれほどまでに緊張していた。

 市場需要の積極的な開拓と、電気・電子業界での追い風。両方のおかげで、1999年にはわずか100トン未満からスタートした〈ジェネスタ〉の年間生産量は、2005年には7000トンを上回り、西条に続く鹿島の工場新設にまで漕ぎ着け、年間1万3000トンもの生産能力を可能にしている。一般的に新規の樹脂製品は20年かけて1000トンクラスに達して合格点というプラスチックの歴史の中で、〈ジェネスタ〉は破格の伸長を見せているのである。
 生産量はとんとん拍子で増えていったものの、製造技術を確立する過程では苦難の連続であった。そもそも純度の高い製品を量産する上で、プロセスにこだわったことから、想定以上に時間がかかった。
 ある工程では中間製品に金属粉が混じり、品質上に問題を来しかねなかった。それを聞いた柏村は、すぐさま製造現場に駆けつけ、作業にあたる人々と一緒に磁石で金属粉を除去したこともある。

 「〈ジェネスタ〉は自分一人で作り上げたわけではもちろんない。世の中に出すまでには、工場で働く社員だけでなく、知的財産や物流をはじめとして法務、原料、機材、人事、広報などなど数多くの部門の方々の力を借りた。長く研究所にいた時分には気付けなかったことだが、製品を世に出していく、そして事業を拡大していくとき、会社ではそれに必要な部署が技術系・事務系の垣根を越えて連携している。この協力体制、人の結びつきがあってこそ、製品が完成したと思っている」
 世の中にないものを生み出し、量産化までこぎ着けること。それは「愛着と執念の産物」だと柏村は言う。
「これと決めたら、とことんのめり込む。どんな障壁に直面しても、けっして諦めない。ものづくりのために、自分の知的好奇心を徹底的に活性化させる。そして、技術、市場にアンテナを張って、ささいなことも見逃さない。これに尽きると思う」