社会性報告

【コラム】 ビニロンとCSRの理念

「未来技術遺産」として登録された合成繊維ビニロン

クラレが世界で初めて工業化した国産初の合成繊維ビニロンは昨年、操業開始から60年を迎え、国立科学博物館の「未来技術遺産」に登録されました。ビニロンとその原料であるポバール事業の発展を通じて育んださまざまな技術は、現在のクラレグループの事業を支える大きな柱となっています。
また、「企業が得るべき利潤は『技術革新による利潤、社会的、国民経済的貢献に対する対価としての利潤でなくてはならない』(二代目社長大原總一郎)」という、クラレの経営理念もビニロンとともに培われてきました。

純国産にかけた信念

ビニロン織物展示即売会に訪れた吉田茂首相を案内する總一郎

ビニロンは、1950年11月にクラレ岡山工場で日産5トンから操業を開始しました。ビニロンの工業化は、「戦争に負けて自信を失っている日本人の心を奮い立たせる」という總一郎の確固たる使命感によるものでもありました。
同じ時期に他社が米国からの技術導入によって製造を開始したナイロンとは違った意味で、ビニロンは日本国民の期待を集めました。資源の乏しい日本にとって、ビニロンは石灰石と電力(水力)と空気(酸素)によって合成しうる、純国産の繊維だったからです。1949年5月には東京の三越本店において、試験生産したビニロンの展示即売会を開催し、身動きできないほどの人を集めました。いかに反響が大きかったかがわかります。

ビニロン学生服の広告

しかし、ビニロンの生産にこぎつけるためには、当時のクラレの資本金2億5千万円をはるかに超える14億円もの投資資金が必要でした。政府の合成繊維育成政策に期待していた資金援助が受けられず、資金調達は難航しました。總一郎は、「一企業の利益のために興す事業ではなく、日本の繊維産業を復興するものだ」と日銀総裁一万田尚登氏に直談判し、協力を求めました。こうした熱意により、1949年10月に15の銀行団による14億円の協調融資が成立したのです。
こうして誕生したビニロンですが、朝鮮戦争の休戦で景気が落ち込むと、染色性の悪さなどの問題もあり、しばらく苦境に立たされます。しかし、その後、技術革新を重ね、漁網、産業資材や学生服などの衣料へ用途展開も進んで、一歩一歩事業を拡大していきました。

中国へのプラント輸出

そのような中、1958年1月に中国の化学工業視察団が来日し、民生用繊維増産の目的でビニロンプラントを輸入したいとの申し入れがありました。当時はまだ、日中間に国交が回復しておらず、中国へのプラント輸出は極めて異例でした。しかも、この動きは、台湾との関係もあって政治問題化します。この情勢の中、クラレが政府や政党幹部、西側外交筋へ積極的に働きかけた結果、1963年8月に日中LT貿易覚書(『日中貿易に関する高碕達之助・廖承志の覚書』1962年11月)にもとづいた貿易として、政府の輸出承認を得ることができました。これが、西側諸国から中国へのプラント輸出第一号です。
当社にとってのこのプラント輸出は、単なる経済活動というだけでなく、社会的責任を意識した経営でもありました。

建設された中国のポバールプラント(左)とビニロンプラント(右)

總一郎は、雑誌『世界』でこんなことを言っています。
「ポバールとビニロンの技術は、倉敷レイヨンという日本の一企業に働く一万の従業員が、戦後の困難に屈せず心血を注いで創り育てた会社の財産である。したがって、その経営者である私は、会社の利益のために有償でこれを売却する責務をもつものである。ただ私の念願することは、日産30トンのビニロンは、6億5千万の人口に対しては、1年1人当たり僅かに0.017キロの繊維を供給するに過ぎないものであるが、繊維に不足を告げている中国人大衆にとって、いささかでも日々の生活の糧となり、戦争によって物心両面に荒廃と悲惨をもたらした過去の日本人のために、何ほどかの償いにでもなればということ以外にはない。」

ビニロンの貢献

ビニロン繊維補強セメントが使われている屋根スレート

ビニロンはその後、汎用繊維ポリエステルの台頭により衣料用途においては苦戦します。しかしながら、ビニロンは、独自技術で開発した高強力、高弾性率、親水性、耐薬品性、耐候性などの特性を生かせる用途分野に活路を見出しました。寒冷紗(農業用メッシュ状織布)、海苔養殖網などの農水産資材、ロープ、帆布、消防服、作業服などへと展開を進め、近年では、無水銀アルカリ電池セパレーター、自動車用オイルブレーキホースなど、工業資材分野を中心に用途を発展させています。このほか、欧州を中心にセメントの補強材としても需要を拡大し、アスベスト(石綿)に代わる環境素材として、世界の人々のくらしの向上に貢献しています。

總一郎のビニロンにかけた思いは、クラレのCSRの理念や事業の基礎となって今日に引き継がれているのです。

棟方志功「美尼羅牟頌板画柵(びにろんしょうはんがさく)」 がともした導きの灯

ビニロンの工業化が最終段階に入っていたあるとき、總一郎が改まった様子で棟方志功に言った。「今私は、ビニロン事業に運命をかけている。日本経済自立のためにも、ビニロン生産を軌道に乗せなければならない。その導きの灯がほしい。ビニロンにかける気持ちを板画で表現してもらえないでしょうか。」当時はドッジ・ライン不況の真っ只中にあり、会社経営に苦労していた總一郎は、苦難の道を切り拓く勇気を、棟方志功の板画に求めたのである。
棟方志功は、汗のにじむ顔を、板木にくっつくほど近づけて丸刀を振るい、16枚の板木を使った1m四方の作品4点で構成する板画を彫り上げた。ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」を題材にした大作品「美尼羅牟頌板画柵(びにろんしょうはんがさく)」である。

美尼羅牟頌板画柵(びにろんしょうはんがさく)(別名「運命板画柵」)

クラレ所蔵作品(同じ板木からの板画作品が大原美術館にも所蔵されています)

黎明の柵

真昼の柵

夕宵の柵

深夜の柵

ビニロンの原点

60年前に生まれたビニロンは、今でもクラレの主力製品です。ビニロンは、時代のニーズに沿ってどんどん進化をしてきましたが、自分はなぜこの仕事をしているのだろうと思うとき、立ち位置がものすごく重要だと考えています。この商品を売ることで日本の産業が発展する、環境保全の一端を担える、生活の安全に貢献できる、という3つの立ち位置を事業運営の指針にしています。もちろん企業活動ですから収益を上げなくてはなりませんが、「世のため人のため」という原点を大切にしたいと思っています。 (繊維資材事業部長 豊浦仁)